他人のルールに従っていたのでは成長しない。誰かに従属するだけだ 〜ニール・ドナルド・ウオルシュさんのご本その2から 4

 「あるべき」という言葉がいけないのは、誰かが基準を設定する点だ。そうすると、あなたがたの行動は自動的に、何を喜びとすべきかという他人の考えに制約され、方向づけられ、指示される。(中略) セクシャリティだけではなく、人生のすべてにおいて、誰かが決めた適正基準に違反するから、やらないなどということは絶対にやめなさい。わたしが、車にステッカーを貼るとすれば、「適正基準に違反せよ」というのを貼りたいね。それどころか、すべての寝室に、この標語を掲げたいよ。
(ウオルシュ)しかし、「善悪」のけじめが、社会を支えているんですよ。善悪についての共通の基準なしで、どうやって共同生活が営めますか?
 「適正基準」は、あなたがたの相対的な「善悪」の価値観とは何の関係もない。人を殺すことは「悪」だと誰でも思うかもしれない。だが、雨のなかを裸で走ることは? 隣人の妻を奪うことは「悪」だろうが、自分自身の妻を、とりわけ甘美な方法で「奪う」ことはどうなのかな? あるいはあなたの妻があなたを「奪う」ことはどうなのかね?
 「適正基準は、法的な制約とも関係がない。何をもって「適正」とするかという単純な話だ。「あるべき」行動とは、必ずしもあなたがたの言う「最高の利益にかなった」行動ではない。それどころか、歓びをもたらすことはほとんどない

じょうしきをうたがえ ですね
神との対話〈2〉宇宙を生きる自分を生きる (サンマーク文庫)