人生は、すでに知っていることを体験する機会だ 〜ニール・ドナルド・ウオルシュさんのご本から 3 

 世界には犠牲者もなければ、悪人もいない。誰も、他者の選択の犠牲者ではない。ところがあるレベルでは、あなたがたはみんなで唾棄するものを創り出している。創り出したということは、それを選んだということだ。 これは進んだレベルの思考だ。すべての<マスター>は遅かれ早かれ、このレベルに到達する。すべての責任を引き受けたときにはじめて力を得て、ほんの一部でも「変える」ことができるようになる。 「こんな目に合う」のは、何か、あるいは誰かのせいだと考えているかぎり、どうすることもできない。「わたしの責任だ」と言ったときはじめて、それを変えられる。

 自分がしていることを変えるほうが、他者がしていることを変えるよりずっと容易だ。なにごとであれ、それを変える第一歩は、選んだのは自分だと認め、受け入れることだ。個人として責任があると思えなければ、わたしたちはすべて一体であるという理解を通じて、認めなさい。それから、間違っているからではなく、ほんとうの自分にふさわしくないからという理由で、変化させる努力をしなさい。

 何かをする理由は、1つしかない。宇宙に向かって、自分が何者であるかを示すことである。 そうすれば、人生は自己の創造になる。あなたがたは人生を使って、真の自分、こうありたいと願ってきた自分を創造する。また、ある行動を拒否する理由も1つしかない。それが自分にふさわしくなくなった、という理由だ。その行為が、あなたがたの真の姿を表さない(representしない、つまり再び存在させない: re-presentしない)からである。 正しい自分を示したいと願うなら、永遠のなかに映し出したいと思う自分にふさわしくないものはすべて、変えていくよう努めなければならない。

 大きな意味では、「悪い」ことはすべて、あなたがたの選択の結果として起こっている。間違いは、それを選んだことではなくて、それを悪と呼ぶことである。それを悪と呼べば、自分を悪と呼ぶことになる。創造したのはあなたがただから。 あなたがたは、この悪というレッテルを受け入れられない。だから、自分に悪というレッテルを貼るよりも、自分自身の創造物を捨てる。この知的な不誠実さで心を偽り、あなたがたはいまのような世界を受け入れている。あなたがたが、個人として世界への責任を認めていればーあるいは、心の底から責任を感じていれば−世界はまったく違った場所になっていたはずだ。みんなが責任を感じさえすれば、世界は変わっていた

ちてきなふせいじつさ..しみます
神との対話―宇宙をみつける自分をみつける (サンマーク文庫―エヴァ・シリーズ)